1998年に結婚して、その年の11月に初めての妊娠をした。
だけど7週目くらいから出血があり、絶対安静ということで入院したけど、結局流産してしまった。
このとき1人で病院へ行くのが怖くて、主人に「ついてきて」と言っても「眠いのになんで起こすんだ!!」って文句言われた。入院って決まって、ご家族の方を呼んで下さいと言われ、主人に電話したら、ちょうど起きて、コーヒー飲んでるところだった。私と赤ちゃんにとっては一大事なのに。。。「眠いのに・・・」なんて、なんてひどい人なんだろう、、、ってすごく悲しかった。しかも赤ちゃんの一部が出血と一緒にでてきちゃったのに、看護婦さん呼んで欲しい、そばにいて欲しいって言ったのに、用があると言って、主人は帰ってしまった。流産後の処置を終えて、部屋に戻っても、主人はいなくて、タバコ吸いに行ってた。。。
こんな人だったの???って、主人のことがよくわからなくなった。
でも、流産のことに関しては、病院の先生からは妊娠した人の15〜20%の人は流産するんですよと言われ、そんなものかと思い、いつかまた出来るだろうと思っていた。
その後なかなか妊娠しなかったので、不妊症外来などに行こうかなあと思っていたら、2001年の10月に再び妊娠した。今度は大丈夫だろうと思う気持ちと、また流産したらどうしようという不安とが入り交じった感じだった。
そしてまた、7週目くらいから出血。頭の中は流産した1回目のことでいっぱいだった。そしてやっぱり流産。。。
なんで自分だけ???という気持ちでいっぱいになり、バイトに行っても、何もすることが出来ず、ただぼーっと日々を過ごしていた。今思うとこの時から私はうつ病になり始めていたんだろう。そして、なぜこんなに2回も続けて流産したのかネットでいろいろ調べてみた。
「不育症」といって、妊娠はするけど妊娠を持続することが出来ず途中で流産してしまうという病気があることがわかった。もしかして私は不育症?でもどうすればいいのかがわからなかった。
産婦人科の先生に聞いても2回の流産では不育症ではないですよと言われた。そして2002年3月。2回目の流産からほとんど間をおかずまた妊娠した。そして、やっぱりまた流産。1、2回目と同じ7週目くらいで出血が始まった。そして産婦人科の先生に、専門の婦人科の病院に行って調べてもらった方がいいと言われた。それならどうして2回目のときにそういってくれなかったのだろうという思いでいっぱいだった。おなかの子は私だけを頼りにしていたのに、結局どうしていいかわからずに3つの命を誕生させてあげられなかった。
だんだん病院の先生のいうことが信じられなくなってきて、不育症を専門にしている病院を探すのも、自分でいろんな病院に電話したりして見つけた。
この頃になって、3回も流産することになって、主人はやっと私の気持ちを理解してくれるようになってきた。たぶん、主人も3回の流産を悲しく思ってたのだろう。
そして、診察はともかく、どんな病気かを詳しく教えてほしいといった私の希望を受け入れてくれる病院が見つかった。早速予約して主人と二人で行ってみると、1時間近くかけていろいろと説明してくれた。この先生に不育症をことを任せてみようか、、、という気持ちになってきて、少し気分的に楽になった。そして治療を始めた。
幸運にもと言うべきなのかもしれないが、ホルモンのバランスを調べるといった血液検査で、私の不育症の原因がわかった。ホルモンのバランスを薬で管理することで7〜8割の確率で次は無事に赤ちゃんが産めますよと言われた。本当はうれしいはずの先生の言葉が私には全くうれしい言葉には聞こえなかった。
こんなに簡単に原因が分かるのにどうして今まで何もしなかったのだろう????赤ちゃんを産みたいと思って始めた不育症の治療のせいで、いつの間にか私は自分をすごく責め続けることになってしまった。
不育症の原因が分かった、2002年4月中旬くらいから、だんだん些細なことで腹が立つようになり、意味もなくキレてしまって主人に乱暴をしたり、主人を家から追い出したり。。。そんな私をみて、私のことを病気だと思い精神科へ主人が連れて行ってくれた。(今思えばそんな中ずっと私についていてくれた主人には感謝しても感謝しきれない。。。)
うつ病と診断され朝、昼、夕そして寝る前に薬を飲むことになった。この薬のため赤ちゃんを作ることは今は出来ないと婦人科の先生に言われ、不育症の治療も中断になってしまった。
病院に通っても、薬を飲んでもいっこうに治る気配もなく、薬ばかりがどんどん増えていく。もうすぐ結婚記念日になるのに、その日もこうやってけんかして過ごすのかなあ???と、あの頃の私はもう既に自分の気持ちを自分で制御することは出来なかった。
1、2か月経ってもいっこうに治らないので、病院を変えてみることにした。やっぱりうつ病と言われたが、薬はこれまでと違うもので、量も少なかった。もうすぐ8月という時、入院してしばらくゆっくりしてはどうですかと言われ、系列病院で入院施設のある精神科に入院することになった。
この頃から私はいろいろと覚えていないことが多くなっていて、2つの病院を見て回ったり、実際に入院した日のことなど、ほとんどをいまだに思い出せない。
そして2002年8月13日、お盆なので流産した赤ちゃんたちをお参りに行こうとした車の中で大暴れしてしまい、その後1週間保護室に入院になった。この頃には本当に自分の中に別の自分がいるんじゃないかと思うくらい、自分の気持ちをコントロールできなくなってしまっていた。
保護室:外からは頑丈に鍵がかかっているけど、中からは全くドアを開けることが出来ないようになっている。3畳くらいの部屋にトイレと畳の上に布団が敷いてあるというすごくシンプルな部屋。
保護室に入っても、落ち着かず、どうやっても開かないドアをたたいて叫び散らしてみたり、窓の柵にシーツを破いたのをくくりつけて、首を絞めようとしたりしていた。そうかと思うと、赤ちゃんのことを思い出しては、わーわー騒ぎ立てていた。
結局精神的に落ち着くのに3日くらいかかった。昼間は本やノートを持って入って良くなって、本を読んだり日記を書いたりできるようになった。それと2時間くらい普通の閉鎖病棟に居てもいいようになった。でも閉鎖病棟に移れたのは、保護室に入ってから1週間後のことだった。お風呂もずっと入れなかったので、閉鎖に移る前にお風呂に入らせてもらったときはすごくうれしかった。
閉鎖病棟は窓に柵がしてあるのと、病棟から出るドアに鍵がかかっているくらいで、テレビを見たりトランプして遊んだりと、なかなか楽しく日々を過ごせた。でもまだこの頃は、一人で静かに入院することが出来ず、なんだかんだと言っては主人を毎日病院に呼んでいた。
そして8月の終わりに退院して、入院する前に通っていた病院で外来通院をすることになった。
だけど、入院していた病院での主治医の先生の方が自分に合ってる気がして、月に2回、遠くまで外来通院することにした。そして、32条の適用(外来の通院費の5%しか患者は支払わなくてもよいという決まり)を受けながら、2004年9月まで、約2年間通院した。
通院していた病院は、まわりが田んぼや大豆畑で、すごくのんびりとちょっとしたドライブ気分で行けるところだった。薬も少しずつだけど減ってきていた。でもなかなか毎日気分が落ち着くということはなくて、特に月経周期によって気分がすごく変動していた。
それに加え、家で療養していたら、そのまま家から出られなくなるんじゃないかとか思って、洋裁を習いにいったり、近くの女子大に研究させてもらいにいったりしてた。本当はこの頃に家でゆっくり静養できてたらもっと早く治ったんだろうなあと、今になってみれば思う。あの頃は何かとまだ焦っていた。
そして2004年9月の初め、自分の中でいろんなことが整理できず、煮詰まってしまったのか、自分でもいまだによくわからないけど、手首を切って自殺しようとした。この時の自分の気持ちは今でもよくわからない。でも誰かに自分がどれだけきついのかわかってもらいたかったような気もする。このことが原因で、また2週間ほど病院に入院することになった。
入院中のこと、どうやって退院になったのかは、ほとんど覚えていない。
だけど、退院して、紹介状を書いてもらって、今通っている病院の外来に行くことになった。
でも、この頃も自分をなかなかコントロールできず、コントロールできるようになりたいと言って入院させてもらうことになったのは、覚えている。そして、9月の終わりに今通っている病院に入院した。
入院した次の日、主人がお見舞いにきてくれて、主治医の先生と、主人と私と3人で面談をすることになった。でも、主人の持ってきた鞄が私のものなのにと文句を言ったり、筆記用具を投げつけたりして、今回の入院でも保護室に2日間入院することになった。でも今回は以前に比べると落ち着くのも早かった。いつの間にか少しずつでも治ってたのかなあ???と思う。
保護室から出て、閉鎖病棟に入院になった。窓には相変わらず柵がしてあって、ちょっとしか開かないようになっていたけど、部屋がすごく広く、景色も緑がいっぱいで、とても街中からちょっと行った所にある病院とは思えないほど居心地の良い病院だった。
主治医の先生は女医さんで、妊娠前後などの女性特有のうつ病を専門とする先生だった。主人との面談は水曜日だけになった。それで洗濯物を持ってきてくれたりする時に手紙を交換することにした。主人も私が病気になり入院していることを寂しく思ったり悲しく思ったりしていることを知った。何だか恋人同士みたいだけど、主人の気持ちもわかって、早く治りたいという気持ちになれた。
まだ気持ちは落ち着かず、看護婦さんと言い争うことや、夜眠れずにナースステーションに押し掛けたりしていた。でも看護婦さんには私の話しを聞いてくれて、気分を落ち着けてくれる人もいた。前入院していた病院では、「看護婦さんが仕事にならないくらいあなた押し掛けてきてたでしょ!」と怒られていたのに比べると、この病院は看護婦さんや師長さんがやさしい。
病院によってこんなに違うのかと思った。
ちょうどこの頃、プロ野球プレーオフがあっていた。夕方になると私はラジオを聞きながら、主人はテレビを見ながら、携帯でメールのやり取りをして遊んだ。何だか一緒に見てるような気がして、でもちょっと恋人同士みたいな気がして、すごく楽しかった。結局私たちが応援していたダイエーホークスは西武に負けてしまって日本シリーズには行けなかったけど。。。
うつ病の方はというと、まだまだ治る気配もなくて、前向きに物事が考えられず、家に帰りたいと訴えてみたりしていた。(自分から入院したいって言ったのにねえ。。。)それで、「あなたが本気で治したい、自分で自分をコントロールできるようになりたいって言ったから、私はあなたの主治医として一緒にがんばろうとしてるのに、なぜ逃げるのか。」と怒られたりしていた。
でも10月も下旬の頃からだんだん良くなり始めて、自分でも前向きにのんびり治そうという気になり始めていた。薬や療養も確かに効果があったのだと思うけど、同じ入院している患者さんに友達が出来、その人たちに助けられた部分もすごく大きいと思う。
いろんな友達が入院中にできた。
同じ部屋で、ご飯もいつも同じテーブルで食べていたNさんやIさん。お互いきつくてたまらなくて、「きついね、きついね。」と抱き合ってはお互いを慰め合ってたA子さん。おじいさんなんだけどいつからか友達になって、一緒に作業療法に行ったりしていたTOさん。ケーキが大好きでよくケーキの本を私にも見せてくれていたM子さん。時々「握手しとくれ。握手、握手」と言っては、私と握手してくれていたTおばあちゃん。
でもやっぱり一番私の支えになってくれていたのは、同じ部屋だったT子さんだと思う。彼女は私の中ではいまだに特別な存在のような気がする。
私がどんな気分だろうと、「どっちのお洋服がいいと思う?」とか、「お菓子持ってないの?」とか、「おみかん持ってる?」といつも陽気に話しかけてくる。私の気分なんて全く関係なし。でもその陽気さのせいか、いつの間にか私も気分が明るくなってた。そして、彼女は病院を退院できるようになっても、保護者になってる人が帰ってこないでほしいと思ってるのに気づいてるようで「ここを出ても私には帰る家がないのよ。でもこれは私の運命なのよ」と言って、母親から届いた手紙を大切そうになおしながら笑っていた。こういうことを笑いながら言えるのって、どんなんだろう。。。Aさんも退院しても帰る家がないと言っていた。この時はAさんと二人で泣いた。自分がどれだけ幸せの中にいるのかと気づかせてくれた。彼女たちには本当にいろんなことを教えてもらい、支えてもらったと今でも思う。
11月になって、週末には外泊できるようになった。ちょっと早めに家に帰ったり、ちょっと遅めに病院に戻ったりして、主人がいなくても家にいられるように練習も始めた。
看護婦さんにも時々大人っぽい対応が出来るようになったねと言われるようになった。それまではサザエさんのタラちゃんみたいな甘えた感じの話し方をしたりしていたらしい。自分では気づいてなかったので、おどろいた。
でも、12月になっても、まだまだイライラは治まっていなかった。きついからナースステーションに行ってるのに「あなたも自分がどうして欲しいか考えないと」とか「さっき薬飲んだでしょ」と言って全く相手をしてくれない看護婦さんもいた。どうやったらこの気分が治るかわかるのなら入院なんてしてない。薬さえ出せば良いって言うのが看護婦なのか!!と叫んでいたら、T子さんが話しを聞いてくれて慰めてくれたこともある。
いつも食事を一緒にしてたNさんは毎日1時間のウォーキングが日課だけど、一度一緒について歩いたことがある。この時、具合の悪い時は布団の中に入っていたら良いよと教えてくれた。Nさんの背中を見ながら歩いていると、時々騒いでしまう自分、まだまだいろいろなことで心がふれる自分を恥ずかしく感じた。私ももっと強くなりたい。
「死にたい」私もよく言っていた言葉だけど、Aさんがある日私に「死んでしまった方が楽だ」と言ったのを聞いて、一番言ってはいけない言葉だと思った。悲しいを通り越した虚しさ?を感じた。これまで主人に何度となく言ってきた言葉。それでも一緒にいてくれた主人、本当にありがとう。
12月に入り、本格的に外泊や外出の練習をするようになった。
毎週のように週末は外泊してたけど体も頭もすぐ疲れてしまって、でも何かしないとという焦燥感もあった。そのためかお昼に何をしていいかわからずに、家でじっとできず病院に戻りたくなった。でも「別に何もしなくても、家になれる練習なんだから」と主人に言われるだけで、気分がすごく落ち着いていたのを考えると、やっぱり入院したての頃よりはずっと治ってるようだった。
そしてこれまではあまり面白いと思えなかったテレビが見れるようになってきた。このおかげで家に一人でいても適当にテレビを見ながら時間をつぶせるようになった。
ちょうどこの頃ちょっと様子の違う人が入院してきた。彼はいつも香水をつけていて、なんか嫌なにおいがしていた。そしたら、彼がその香水を持ってきてそんなに変なにおいじゃないよと言って、突然私の頭からシュ〜ッといっぱい香水をかけてきた。幸いにも当直の看護士さんが優しくて、シャワーにかからせてくれた。そしてしばらくしたら、その香水の彼が廊下ですごい勢いでキレていて看護士さんに捕まえられ保護室に連れて行かれた。不安になって、後で看護婦さんに聞いたら、もっと看護婦さんのたくさんいる、目の行き届く病院に行ってもらったから大丈夫と言われた。でももっと看護婦さんのたくさんいる、目の行き届く病院って何だろう?保護室みたいな部屋ばかりなのかなあ?とか考えてると怖くなってきたので、睡眠薬をもらって眠ることにした。香水の彼は本当にいなくなったけど、3回の入院の中で一番怖い夜だった。
病気になってからは、主人がゆっくり安心して学会に行けるような状況ではなかったのに、今年はまあまあ主人を安心して学会に送れたのではないかと思う。とは言っても、主治医の先生に「悲しいよ〜、おろろ〜ん。。。」と言ってたんだけどね。でも、何とか一日寝てたりして、4日間の学会がすんで、主人が神戸からよりよりと月餅をお土産に帰ってきた。ので早速という訳でもないが、その次の日から外泊。それからは週末だけでなく平日も外泊して、一人で主人が帰ってくるのを一日中待つ練習も始まった。
ちょうど主人は学生実習を担当していたので、昼間一人でいられない状態になっても、主人に帰ってきてもらうことも、携帯もできない状態だったのに、一日ゴロゴロとテレビを見たりしながら、一人でのんきに過ごせるようになっていた。まだ、騒々しい番組や、長い時間テレビを見ると頭がいっぱいになって具合が悪くなってたのだけど。でも、主人の誕生日も、クリスマスも以前のようにけんかして過ごすことになるのかなあ???なんて心配もあまりなく過ごすことができた。
そして、去年(2004年)の12月29日、仕事納めのすんだ主人に迎えにきてもらい年末年始の外泊をした。どちらの実家にも行かず、家で二人でのんびりと過ごした。おせち料理はもちろん作らずに近くのお店で買った。お雑煮も私は作らず、主人が作ってくれた。今年こそはうつ病も治して、妊娠できるようになれたらいいなあ。
年末年始の外泊が問題なく過ごせたら、年が明けたら退院を考えましょう。と主治医に言われていた。
そして、お掃除も洗濯も買い物も炊事も何もできず、まだ一人で家でゴロゴロしているだけで精一杯だったけど、一人で家にいられるようになったのならといって、今年の1月4日外泊から病院に戻るとそのまま退院になった。病院が家から近いというのも退院の理由だったようだけど。
同じ部屋の人に「おかえり」と言われたけど、今日退院になったと言うとみんな驚いていた。
でも私もちょっと驚いた。何かと遊んでもらっていたT子さんは、「残ってるおやつある?」。Mさんは「退院おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」退院すると言ってるのに、今年もよろしくって言われても。。。
Iさんには「自分が傷つくまで溜め込まないようにしないと」、Aさんには「おめでとう。うらやましい。。。」と言われた。なぜだかわからないけど、涙が出た。荷物を片付けようと部屋に戻るとおやつは?とさっき聞いてきたT子さんにも「退院おめでとう」と言われた。そして、彼女も泣いていた。それにつられてか、また私も泣いてしまった。退院でうれしいはずなのに、とても不思議な気持ちだった。
師長さんにも、看護士さんにも、いろんな人に「おめでとう」と言われた。そして、いよいよ帰るとき、すごくたくさんの人に見送られた。まるでドラマの一場面のようだった。私を本当に支えてくれていたたくさんの人たちと別れるのはとても寂しいけど、もう入院することのないようにのんびりやっていこうと思う。本当にみんなありがとう。


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