病院へ行ってきました。
今日の記事は、ブログに書くため、、、というよりは、1人で煮詰まったり、悩み始めた時に、今日主治医と話したことを忘れないように、自分のために記録しておくといった意味合いの方が強いです。なので、いつにも増して文章がわかりにくいかもしれませんし、思いっきり長いです。ごめんなさい。読みにくかったり、長過ぎたりしたら、途中で読むのやめちゃって下さい。
まずは、頓服を使わないと上手に眠れないことを伝えてきました。自分で飲むことが出来なかったりはしてるけど、頓服を絶対飲まないと眠れない訳でもないし、頓服を飲めば眠れるのならと、また就寝時の薬が少し減薬になりました。頓服薬を上手に使って、自分の調子を整える練習だそうです。


あと、今日のメインのお話は「死にたい」と時々ふと思うことについてでした。
何ということもなく、ふと「死にたい」と思う。だけど、以前と違って実行しようとまではいかない。でも、やっぱりふと思うときが辛くて、その時間を1人で過ごさないといけなかったりすると、思考を変えることが出来ず不安になっていくこと。このことを主治医に伝えてみました。
で、、、主治医からの話しとしては、、、「死にたい」というのは、「なぜ生きていていいのかわからない」というのと同じ意味を持っている。ということだった。特に若い年齢のうつ病の人にリストカットが多い。でも、そのリストカットは血がにじむ程度のものが多く、決してその行為だけで死に至るようなものではない。では、なぜその人たちはリストカットをしてしまうのか。それは、自分の血を見ることで、自分が生きていることを実感してるんだ。痛みを感じ、自分の赤い血を見て、そうしないと自分が生きているということを実感出来なくなってるんだと。
もちろん、精神科医として、患者が「死にたい」と思っていて実際に行動に移しそうだと判断した時は、医療保護入院という形で強制的に入院させるという方法をとる。だけど、人間生きていれば誰しも「なぜ自分は生きてるんだろう?」「自分が生きている意味は何だろう?」と考えるものだ。だから、昔から宗教というものがあり、出家するという行為があったり、悟りを開くということがあったりするのだと。
多くの人は、その問いに気付かないように、別の何かに夢中になって気付かない振りをして生活しているだけだ。でも、うつ病になって、時間がたくさんあって、しかも家事も出来ない。人の世話にならないと生活出来ない。それどころか他の人に面倒をかけてしまっている。そう思ってる時に「なぜ自分は生かされてるんだろう?」って疑問に思うのはごく自然なことなんだと。主治医の先生はそう言っていた。
人間はいつかきっと死ぬ時が来る。そしてその時が来ても、周りの人はそれなりにその現実を受け止めて、それぞれ生き続ける。いなくなると絶対に困るという人はこの世には誰もいないんだよ。みんな、なぜ生かされてるんだろうと問いつめると、なぜ?ということになってしまうんだよ。
そして、私にこう言った。
あなたはふと死にたいと思ってしまってる。自分がなぜ生かされてるのかわからずに、何のために生きてるのかわからずに悩んで苦しんでる。ご主人を困らせてる。ご両親に面倒ばかりかけてる、そう思ってる。でもね、、、あなたのご主人は、あなたに頼られてる、必要とされてるというのを支えに生きてるのよ。あなたはあなたのご主人の生きる意味のようなものなのよ。あなたのご両親も、あなたの面倒を見てくれてるけど、ご両親にとってもあなたがご両親を頼って、必要として生きてるというのが、ある意味生き甲斐のようなものなのよ。世の中の人はみんなそうやってつながってるのよ。
あなたの生きている意味は、あなたのご主人やご両親に生きる意味を与えることなのよ、、、と。
最後に、来年の春からのことについても少し話しをしてくれた。あなたは来年の春からの自分の居場所にできるだけ付加価値を付けようとしてる。研究生というどうせお金を払った形で行くのなら、きちんとした大学院生になりたいと思っている。お金を払った立場よりは、研究補助員というお金をもらった形での立場を選ぼうとしている。よりきちんとした立場でその場にいることで、自分が必要とされてる人間なんだと思いたいと思っている。より良い成果を出して、認められて、必要とされるようになりたいと思っている。そこに自分の生きている意味を見いだそうとしている。
でも、そういった人からの判断をもとに自分の存在価値を決めていたら、誰かに必要じゃないと言われた瞬間に自分の存在価値は無くなるよ。あなたがいなくたって、その研究室は他の誰かが研究を続けてて、何の問題も無く進んでいくものなんだから。あなたじゃないと絶対にだめっていうことはないのよ。そうじゃなくて、自分の中に自分の存在価値を求めた方がいいよ、と言われた。
自分が楽しいからやる。そうはいっても楽しいことばかりがある訳でもなくても、でも、根本は自分が楽しいからやる。他人から評価されるためにやってたら、また同じようにうつ病にかかるよ。そう言われた。
自分がなぜ生きてるのか。はっきりと自分の中で解決した訳ではないけど、何だか少し心の中が楽になった気がした。私が生きているということが、主人や両親の生きる意味にもなってるんだ。そう思うと、何だか救われる気がする。社会的な評価ばかりに目をやって、自分の存在意義を決めようとするのではなく、もっと自分のことを大切にしようと思えた。
今日も1時間近く話しをしてくれたけれど、本当に今の先生に出会えたことは良かったことだと思う。